[翻訳] 僕は人間にひそむバグに直面しても、自分をデバッグすることを止めない
2003年頃に耳にして、えらく感銘を受けた講演がある。
エリエゼル・ユドカウスキーによる A theory of fun という講演。
たまに、何から何まで素敵なものだから、もっと広めたい、より理解を深めたいという一心でつい翻訳してしまう文章があるが、これもその 1 つだった。
読み返してみて、今でも私の価値観の一部になっているのは次の 2 点だろうか。
- 常識上、今そうだからといって、それがいいわけじゃない
- 自分をデバッグし続けること
シンギュラリティーとかトランスヒューマニズムといった概念を知ったのもこれが最初だ。
英語による元の講演はこちら:
http://dotsub.com/view/96f08002-1f65-45d1-ba97-a8cc05784d94
以下が私の私訳。(段落分けと小見出しは訳者による)
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快楽論 (エリエゼル・ユドカウスキー、トランスビジョン・カンファレンス、2003年6月28日)
死ぬのは恐くない?
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以前、ライオノっていう友達が、誰かにトランスヒューマニズムの説明をしているのを聞いたことがある。相手は、自分は死ぬのは恐くないとコメントしていた。ライオノは: 「死の恐怖を克服するって話はよくあるけど、永遠の生の恐怖を克服しようとした人はどれくらいいるだろうね」
トランスヒューマニストなら一度は、死の恐怖を忘れるために考案された理屈と戦わなきゃいけなかったことがあるはずだ。「死があるから生に意味がある」みたいな、人を安心させるための嘘だ。個人的には、確かに死の恐怖は克服されるべき短所だと思ってる。生を選ぶためには死を恐怖している必要はないし、ただ生を重んじているだけで充分だ。でもこの哲学上の問題は緊急のものじゃない。今のところはお互い同意しないことに同意すればいい。議論するための時間を何億年分か確保する方が重要だ。
さて、何億年も生きるというのは、恐怖に値する。永遠に生きるのよりは恐くないけど (それは物理法則上許されているかもしれないし、いないかもしれない)、数千年だけでも生きたら自分が人間としてどうなるかを考えれば、それだけで恐いものだ。脳のニューロンを全部生かしておけたとしても、人の精神は数千年分の記憶を扱うようにはできてない。たった千年でも子どものままでいることはできない。少なくとも成長しなくちゃいけないからね。でも生きることがよいことなら、途方もなく長い人生を恐がる必要があるんだろうか?
よいことはよいことだ
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トランスヒューマニズムを思想として際立たせているのは、成功がもたらすものを心から迎え入れることだ。失敗の言い訳をする代わりにね。「つまらない人生でなければ意味ある人生にならない理由」を説明しようとする思想はたくさんある。この世の痛みや死や災難のすべては、それに気力を奪われる不愉快事は、どういうわけか、必要であるらしい。こういう言い訳は一つ残らず、こじつけっぽい、不自然なところがある。うまく説明できない事実を説明しようとしてゆがんでしまった理論みたいだ。
ところが、トランスヒューマニズムによればこうだ:
これはつまらない。じゃぁ直そうか。それだけだ。これ以上複雑にしようがないよね。生は死よりもよい、健康は病気よりもよい、幸福は苦難よりもよい、知識は無知よりもよい、そして間違ったことを見つけたら正当化なんてしない、直すんだ。まったく筋が通ってるけど、じゃぁトランスヒューマニズムのどこが特別なんだろう?実際のところトランスヒューマニズムは特別じゃない。目下のところ、特別なのは他の思想の方で、特別な例外条項があるせいで最先端の技術に変な反応をしてるんだ。たとえば、遺伝子がからむものはすべて恐ろしい、みたいな。たぶん聖書のはしっこに、遺伝子が含まれているからトマトは食べてはいけないと警告された人の話があるんだろう。トランスヒューマニズムではそうした「うわっ」っていう嫌悪反応が欠けている。先端技術もただの宇宙のごく自然な一部なんだ。
であれば、最近イギリスであったように、もし胚選別技術で 4 歳のザイン・ハシミ君の生命を救えるなら、もしゴールデン小麦でビタミン A
欠乏症を予防できるなら、やらない理由なんてあるだろうか?ないよね?この選択をするには熱烈なハイテク支持者である必要はない、ただ未来ショックの感覚から脱していればいいだけだ。初めてトランスヒューマニズムを知った人は大抵こう思う、ふむむ、この人たちは何か変わってるね、何が変わってるんだろう - きっとハイテクが大好きなのに違いない。いや、技術への愛じゃないんだ。ただ拒否反応が欠けているだけ、後はよい目的のためによい手段を選ぶという普通の考え方をすればいい。
同じように、ありきたりのトランスヒューマニズム信奉者なら、寿命の延長は 80 歳くらいまでならいいと言うだろう。ところが、200 歳まで生きるのはどうか、って話題を持ち出すと相手は特有のショックを受ける。未来ショックだ。なぜなら相手の思想ではまだその可能性が検討されていなかったからだ。トランスヒューマニストならこう言うだろう、80 歳まで寿命を延ばすのはいいことだ、200 歳まで延ばすのはさらにいいね、1000 歳まで延ばすのはますますいいね、とそういう感じだ。そう考えるのに別に不死を羨望する必要はない、ただ一貫性を保とうとするだけでいい。1000 歳まで生きたいっていうのは異例でも異常でもないし言い訳も必要ない、ただ未来ショックを脱したら誰でも到達するはずのコモンセンスなんだ。
つまりトランスヒューマニズムはただこう主張してるだけだ、生きるのはよいことだ、幸せもよいことだ、知識、自由、知性、美もよいことであり、それはどんなにどれだけたくさんの生と美であっても、変わらない。トランスヒューマニズムは取りたてて技術を崇拝する思想じゃない、ただ哲学として技術は目標を達成するための正常な手段だ、としているだけだ。これは任意の先進技術に対しても変わらない。バイオテクノロジー、ナノテク、何であれ、別にエキサイティングなことじゃない、みんな何の変哲もない宇宙のありきたりな一部分だ。ということは、問題はこうなる:
これから次の 100 万年間、どんな楽しいことをして有意義に過ごそうか?この問題はもちろん、快楽の理論のなわばりだ。快楽の理論は科学の一分野、いやどちらかというと大胆な仮説の分野で、次のような疑問を解決しようとしている:
宇宙にある楽しみの量はどれだけか?楽しみを使い尽くすことはあるのか?僕たち今楽しいんだっけ?もっと楽しいことはあり得る?楽しさはスケーラブルか?楽しさを直線的に増加させるために必要な計算量は指数的に増加するのか?
僕はここで厳密な快楽の理論を展開するつもりはない。この講演は厳密な快楽の理論を展開するには短かすぎる。 20 分しかくれないんだよ、極めてアンフェアだ。さらに、僕は厳密な快楽の理論を持ってないという問題もある。だから代わりに、楽しいことをいくつか見ていくことにしよう。
楽しいってどういうこと?
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たとえば、恋をするのはどうして楽しいんだろう?この疑問は最近解決された。科学者たちが、恋に落ちた状態の脳とチョコレートを食べたときの脳は、同じ神経中枢が興奮していることを突き止めたんだ。ということはこれが、楽しいとはどういうことか、という疑問の答えになるんだろうか?つまり楽しいとは一種の脳内の化学的状態だと言える。
僕にはこれがよい答えだとは思えない。あるいは、これを答えとして採用するなら、楽しいとは何かの定義において、大事なことを見過ごしていることになる。どうしてかって?そうだな、例えば君の脳の快楽中枢にちょっと電極をつないだとしよう。その先にはボタンをつなぎ、そのボタンは君に渡す。で、これから 100 万年間そのボタンを押して過ごしたとしよう。ただそれだけ、他には何もしない。僕はこれはかなりディストピア (不毛郷)
的な先ゆきだと思う。不毛の袋小路だ。本物どころか、まがいものの楽しみのように思える。
脳の快楽中枢を人工的に刺激するのは、ウォルター・キャノンが命名したようにワイヤーヘディングするのは、哲学として受け入れがたい快楽のかたちだ。僕たちが求めているのはまさにそれだ、ただ楽しいんじゃなく、どうやって手に入れるにしろ、哲学的に受け入れられる楽しさだ。どうやら健全に楽しむには、いや不健全なのでもいいけど、どうやら何かをしてどこかに向かっている必要がありそうだ。
じゃぁクッキーを食べるのはどうだろう?僕たちはどうしてクッキーを食べるのか?お腹が空いてるからじゃないのは確かだ。僕たちがクッキーを食べるのは、5 万年前、農耕が発明される以前は、砂糖と脂肪が不足する栄養素の筆頭だったからだ。僕たちは砂糖と脂肪を好むように進化し、今も砂糖と脂肪が好き、カロリー不足ではなくカロリー過多で死ぬ人がいる現代になってもそうだ。進化が追いついてないんだ。つまり僕たちが楽しいと思う活動は、僕たちの先祖がしていた活動であり (男性がアメフト観戦するのは物の投げ合いによる部族間の競争だからだね) 自己実現であるということになる。先祖の環境に調和する、という自己実現だ。
これでなぜ経理とかの現代の仕事に、人の気力を奪うという不愉快な性質があるのか説明がつく。もちろんこれは先祖の神経回路が残っている人の場合だけだ。21世紀の文明が今後数百万年そのまま続いたら、人間はそのうち所得税申告をすることで自己実現を達成するように進化するだろう。これも僕にはディストピアに思える。まぁお菓子を食べながらアメフト観戦するよりはましだけどね。
ではルービックキューブはどうだろう?ルービックキューブを解くのはどうして楽しいのか?先祖がしていたことではないし、脳内の化学物質を直接どうこうするものでもない、解き終わっても五感にうったえるような報酬もとくにない。どうして楽しいと思えるんだろうか?しかもルービックキューブは競争ですらない。純粋な数学だ。物理的な立方体に具現された群論だ。そして僕たち人間はそれで遊ぶことが楽しい。誇りにしていいことだ。
でもルービックキューブには一定量の楽しみしか含まれていない。消費したら、もうそれでおしまい。初めのうちは解くのが楽しいけど、そのうち退屈になる。何が変わるんだろう?キューブ自体が変化するのか?一定量の楽しみを注入した上で工場から出荷されるから、3
ヶ月ごとに新しく買いにいかなきゃいけないとか?いや、キューブ自体は数学的な概念で、未来永劫変わらない。キューブは変わらない。君が変わるんだ。
キューブを解き終わった人間は、キューブを解き始めたときと同じ人間じゃない。キューブを初めて手にした人は、ルービックキューブのようなパズルのことは何も知らなかったかもしれない。もしくは残りのピースは動かさずに一部だけを移動させるような変形方法を、まだ発見していないかもしれない。キューブを解き終わったときには、君はルービックキューブについてだけでなく、同様の問題をどうやって解けばよいかも学習している。さらには学習することについてまでも学習している。キューブから学ぶべきことを学んでしまったら、それを解くのは簡単な作業になる。簡単すぎて楽しくないんだ。キューブを楽しむことで君はキューブを超えて成長する。それが楽しみの一部でもある。
じゃぁその後はどうすればいいんだろう、学習し、成長してしまったら?うん、ネットで検索すればルービックキューブの 4 次元版を実装したアプリを見つけることができる。ルービックテサラクトだ。いやはや僕にはこのパズルが理解できない。まだピースがどういう動きをするのかを割り出そうとしてる。でも、もしまだルービックキューブを解くための法則を理解していなかったとしたら、ルービックテサラクトはまったくもって歯が立たなかっただろう。
つまりこういうことになる、問題を解くというのは、その問題をマスターし、それを超えて成長することであり、それによってさらに次の問題を解く力が身に付く。仮にルービックキューブが取り得るあらゆる組み合わせを解いてしまい、同じジャンルの問題はすべて退屈になるくらいの普遍的な理解を手に入れてしまったら、その後はどうすればいいんだろう?その後はさらにワンランク複雑さを増した問題に進むんだ。
これは楽しさを構成する重要な要素だ。唯一の要素ではないけど、重要な要素であり、ここではこれしかカバーする時間がない。それは、「新鮮な複雑性」だ。これまでに見たことのない複雑さ。頭の回転がはやければはやいほど、問題を一般化して理解するのもはやくなり、解いている問題が退屈になるのもはやくなる。そうだ、頭がいいほど退屈するのもはやくなる、そうなってるんだ。
でも、頭がよくなることで、それまではまったく理解不能だった問題分野に気付くことができるようになる。人間はチンパンジー級の楽しみにはすぐ退屈するだろう。けれど人間の楽しみの領域はチンパンジーのよりも相当巨大だ。10ビットあれば千の可能性がある。20ビットあれば100万の可能性がある。30ビットあれば10億の可能性がある。僕は楽しさがきっかりそういう方程式だとは思ってない、そんなにシンプルじゃないとは思うけど、根本的な関係は合ってると思う。知性の量に対して楽しみの量は指数的に増大する。頭の中に変数を持てば持つほど解く問題は大きなものになり、問題が大きくなればなるほど、新しい問題を発見できる領域は指数的に大きくなる。あるいはそうじゃないかもしれない、単なる憶測だ。
楽しみが尽きる時
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いずれにしろ、我々は賢くなることでたちまち楽しみが尽きてしまうんじゃないかという意見には、僕が思うに次の前提がある。まず、飽きやすいお金持ち、というステレオタイプ。次に僕たちは人間レベルの楽しみしか許されていなくて、頭がいいほどすぐに飽きてしまうというもの。これは実際そうだ、頭がいいほど人間レベルの楽しみにはすぐに飽きてしまう。でもその人間レベルの楽しみに飽きるという行為自体、もう「新鮮な複雑性」ではなくなったということ自体が、次に進めるということを意味している。
そう、膨大な量の楽しみがこの世界にはあるということだ。人間にとってさえ、人間レベルの楽しさの空間は大きすぎて、人間が楽しめる限りの楽しみをいち個人が経験し尽くすのは無理だろう (トライするよう僕はお勧めするけどね!)。ひとりの人間が埋めることのできる人間レベルの楽しみの領域はごくごく小さなものだ。それは寿命が短かすぎるからか?もちろん違う。僕は銀河系最後の星が落ちてなお生きている予定だ。それでも、もし永遠に生きたとしても、人間レベルの楽しみを脱し成長する前に体験できるのはごくわずかな領域になるだろう。そして、それがおっかないパートだ。成長する、という部分が。
成長の恐怖
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今、僕たちはそれぞれ年をとっていっている。成長じゃない、老化だ。僕たちは今まさに老化しながらニューロンを失っていっている。キャパシティーが増えるのではなく。僕たちは年をとるにつれ、体力、創造力、柔軟性、活力、健康までもを失う。これは仕様じゃない、バグだ。年をとったらニューロンが減るなんて不自然なことだ。年をとるにつれニューロンが増えるべきだ。もっともっと経験を蓄積し、もっともっと複雑なスキルを身に付けるために。年齢を重ねたら縮んでいくというのは異常に近いよ。こんなはずじゃない。いずれ、ちょっと考え直させていただかないとね!
しかしながら、一旦この不具合が修正され、老化のかわりにちゃんと成長するようになったら、人間のままでいられるのは時間の問題になる。もし毎日何か新しいことを学習し、そして充分に長い月日が経てば、いつの日か君の知識は莫大なものになり、手にしたルービックテサラクトも取るに足らない問題とみなし、脇に投げ捨ててしまうだろう。この未来が君を不安にさせないとしたら、すばらしく統合された人格をお持ちに違いない。これが、成長の恐怖だ。
成長の恐怖は、永遠の生への恐怖の 3 番目に大きな要因だ。1 番目は抑圧された死への恐怖、2 番目が退屈への恐怖。実はこの成長の恐怖は、学界で今マイナーなブームになっている。ただ、成長の恐怖とは呼ばれていない。ポストヒューマンと呼ばれている。おかしなことに、トランスヒューマニストの間ではポストヒューマンという言葉は結構前から使われていた。フランシス・フクヤマなんかが脅し文句に仕立てようとする前の話だ。僕たちはとくに「ポストヒューマン」という言葉を恐がって使っていたわけじゃなかった。もっとも (はるか昔の古き良き時代には) 「ポストヒューマン」という言葉は木星脳に成長した人という意味で使っていたんだけどね。木星脳っていうのは頭脳がおおきくなりすぎて、木星サイズの計算機上で自分を走らせなきゃいけなくなった人のことだ。おおまかに言って、昔のトランスヒューマニストが使っていた「ポストヒューマン」はそういう意味だ。
フランシス・フクヤマにとっての「ポストヒューマン」は大したことのない遺伝子操作をいくつかやってみた人のことを言うらしい。僕たちの尺度から言えばあまりにも微小な組み換えなので、まったく取るに足りないくらいのものなんだけども。それでさえフクヤマは自分の言うポストヒューマンを恐がっているようで、僕たちの考えるポストヒューマンのことを聞いたらどう思うだろう、興奮して死んでしまうんじゃないかと考えてしまうくらいだ。
変化と進歩
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すべての変化が進歩というわけじゃない、でもすべての進歩は必然的に、ひとつの変化だ。前に進むためには動かなければいけない。君は「ポストチャイルド」あるいは「ポストチンパンジー」であることを恥じているだろうか?
フクヤマが「ポストヒューマン」という言葉を再発明したとき、彼は同時に知的トリックを吹き込んだ。古典的な自然主義的誤謬、今ある姿はあるべき姿だ、という。人間の歴史は光と影の両方で彩られたものだ。ヒトラーは非人間的怪物じゃない、彼は人間の怪物だった。アレキサンドリアの図書館は同じひとつの種によって作られ、焼かれた。
僕は自ら判断を下し、今に満足しないことによってのみ、前進できる。この考え方は、僕が生まれつき持っている人間の性質について判断するときも無効になることはない。ここでもトランスヒューマニズムの方がシンプルだ。トランスヒューマニズムの哲学では、人間の生来の性質に含まれる悪について倫理的判断をするときでも、特別な制限は設けない。僕は人間にひそむバグに直面しても、自分をデバッグすることを止めない。つまり僕はポストヒューマニストということなんだろう。
すべての変化が進歩というわけじゃない、でもすべての進歩は必然的にひとつの変化だ。すべてのポストヒューマンな世界が住みよい場所じゃない、でも充分に住みよい世界は必然的にポストヒューマンだ。ぜひとも未来を住みよいところにしようじゃないか!
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